芸術家として国際的に活動する李禹煥(リ・ウファン)によるエッセイだ。
著者は1936年に韓国で生まれ、活動拠点を日本へ移し、1970年代からは「もの派」運動の支柱として芸術を解体構築してきた。世界中のビエンナーレに出展し、アンディ・ウォーホルやヨーゼフ・ボイスなどアート史に痕跡を残す作家達との交流を経て、ヴェルサイユ宮殿の彫刻プロジェクトも手がける現役のアーティストである。
李禹煥の作品は、2020年より森美術館で開催された『STARS展』の展覧会でも記憶に新しい。巨大なキャンバスにグラデーションがかった1本の線や、巨大な天然石がガラスの上に乗り、それがひび割れているなどのインスタレーションである。実際にそれらの作品と対峙してみると、驚きと静寂、緊張と安心など相反する感情が込み上げてくる。
本書はどこからでも読めるエッセイ形式だが、その根本には二項対立構造を論じているように思える。各テーマはデッサンなど美術に関する事例もあれば、旅先での感想や、コロナ禍の状況など私達でも感じる身近なテーマを例にあげている。
それでも芸術家の観点で各テーマを読んでいると、毎回新たな気づきがある。無常観もそのひとつだ。言わずもがな人間や植物には生と死が伴い、生まれたものは成長しまた亡くなる。日常生活で忘れがちだが、地球上では時間とともにすべてが変わり続ける。著者は矛盾に気づきながらも、日々丹念に作品を制作している。
著者の文体は平常心を保とうとつとめる傍ら、常に根底渦巻いているマグマに突き上げられているかのようだ。狂気と平静、実はこの二重性が彼の作品においてもダイナミズムを生みだしているのかもしれない。
表面的に理路整然を装っている絵画も、よく見ると異様な狂気に覆われているものは少なくない。名作というのは、この両義性のはざまで起こる何かの存在が魅力的なのだ。著者の作品に魅入ってしまうのも、それを表現しているからだろう。
偉大な作品の想像力の出処は、自己を越えてもっと深く大きい。それは普遍的なもので、著者は絵を描いている時や大自然と対峙しているとき、意識的かつ謙虚に気づいている。そのうえ著者は、内なる情熱を言語化できる能力に長けている。本物の芸術家の感覚そのままを体感できる、貴重な一冊だ。
信濃毎日新聞掲載 2021年6月26日
こちらもオススメ:
0件のコメント